宝珠院縁起 |
当寺の寺記によりますと、その昔、弘法大師が諸国を遍参していたおり、河内国錦部郡において一人の老僧にあい、こう告げられた。 「摂津豊島郡に如意輪有縁の霊場あり、宜しく寺院を営むべし」と。 この老僧こそは 役行者小角 の再来であり、 弘法大師は当山に登って如意輪大悲尊像を一刀彫刻して真言を誦し、三礼を成し名号を唱えて、三日三晩かかって彫り上げた。そして寺院を創設して、この霊像を安置しました。もとは如意輪寺と称していた。 その後、陽成天皇の時代になって、元慶四年(880年)に荘園を下賜され、七堂伽藍を備え数十の坊舎は甍を並べて隆盛を極めていたという。 |
昭和五十六年(1983年)撮影写真の左端 如意谷団地のすぐ下に小さく、奥の院のお堂が写っています。隆盛していた頃は、奥之院と宝珠院の間に七堂伽藍があったと想像される。それを裏付ける理由として、萱野北小学校建設の際に発掘調査が行われ、12世紀の平安時代のものと思われる軒丸瓦、軒平瓦片、棟端飾板(鬼瓦)片、隅木覆板片数点他が発見されました。詳しくは付近の歴史「如意谷遺跡」をご覧下さい。 また、本堂は、瓦を葺き替えてはいるが、建物や外塀は中興当時のまま(撮影当時、築317年)であった。 |
境内より本堂を撮影する。円形の窓などが昔の建物を物語っている。 |
1983年再建後の今日の本堂全景 |