如意谷遺跡

昭和56年、萱野北小学校建設にあたって発掘調査が行われた。
その結果、土器や陶磁器のほか、巴文軒丸瓦や蓮華文軒丸瓦・軒平瓦片、棟端飾板(鬼瓦)片、若干の石製品・銭貨等が検出された。

如意谷遺跡 出土品 如意谷遺跡 出土品
左 青磁椀  右 白磁椀  共に鎌倉時代 永楽通宝  初鋳 1034年
元宝通宝      1078年
永楽通宝      1403年
如意谷遺跡 出土品 如意谷遺跡 出土品
石鍋  鎌倉時代

羽釜型土器  鎌倉時代

 陶器の中には当時限られた地域と場所にしか出土しない、緑釉陶器片や、東海地方でしか生産されていない灰釉陶器が少量であるが検出している。また、当時にあっては高級品であったと見られる中国「宋」の時代(13〜14世紀)の青磁・白磁がかなり大量に出土していることや、滑石製品のように、原石の採取地が現在の長崎県西彼杵(そのぎ)半島に限られ、全国的に見てもある限定された地域と遺跡にしか出土していないという特殊な遺物が見られるのである。

如意谷遺跡 出土品 如意谷遺跡 出土品
軒平瓦
棟端飾板(鬼瓦)
赤色の変色は二次的燃焼(火災)による跡

瓦については共通して黝黒色(ゆうこくしょく)を呈し、焼成温度の低い半焼けで、年代は12世紀、平安時代後期と見られる。軒丸瓦は兵庫県明石市魚住の古窯址から出土したのものと似ており、軒平瓦も唐草模様の特徴から播磨系の物である可能性が大きい。

 また、本遺構の特徴として、遺物を包含する土層そのものが薄く、遺物の大半は落ち込んだ部分に存在している。それはこの地域全体が中世(鎌倉・室町時代)以後のある時期に、かなり広範囲に大規模な土地開発等がおこなわれたことを物語るものであり、また、近代において開墾や耕作等によって遺構自体も削平され、上面に存在し手いたはずの遺物のほとんどが失われてしまったと考えられる。

 以上のことから付近の環境と総合して考えると本遺構は交通の要所であった西国街道の「萱野駅家」に隣接し、古代末頃から中世街道沿いの山麓各所にいくつかの集落が発達していたと考えられる。また、本遺構は出土品から見て12〜15世紀に豪族もしくは寺院が生活を営んでいたことがわかる。ただ、瓦については豪族の建物とは考えにくく、寺院であったと想像される。

調査風景
調査風景 中央右上 奥ノ院がうつる (昭和五十六年撮影)


摂津八十八ヶ所 第五十六番霊場 高野山真言宗 「宝珠院」 安産子安観音